今現在(2020年1月)、私たち夫婦は不妊治療を行っています。記事を書き始めた本日(2020年1月11日)は、隣の県の不妊治療に力を入れている産婦人科に転院して、初めての診察、検査に行った日です。転院することになった経緯なども含め、この記事では、私たちが妊活・不妊治療を始めたいきさつ等を男性目線で語っていきたいと考えています。
目次
はじめに ~ 私と妻との出会い
まず、はじめに私の人となりや、家族のことを話しておこうと思います。
私の名前はニックネームで「かっつん」です。
妻が私を呼ぶときの呼び方で、「かっくん」→「かっつん」とだんだん変遷していきました。
職業はサラリーマンで、とあるメーカーで研究開発の仕事をしています。
私は恋愛ベタで、いわゆる草食系で20代から30代の前半を過ごしてきました。
人付き合いもあまり得意ではなく、なかなかいい出会いに恵まれることはなく30代を迎えて、仕事以外は家に引き篭もってアニメを見たりという生活をしていました。
そんな私でしたが、これではダメだと思い婚活をしてみようと、一念発起して活動をはじめました。
その時の職場にちょうど同年代の婚活をしたいという同僚がいて、一緒に街コンや婚活イベントに繰り出したりしていました。その他にも高校時代の友人の誘いで合コンをしてみたり、色々と活動の幅を広げていました。今までの自分にはない進歩だったと思います。
婚活を始めてみると意外と、会ってくれる人もいて段々と自信もついてきていたように思います。
ただ、なかなか気が合って何度も会って仲が深まる人というのは見つかりませんでした。
しかし、そんな活動をしている中で、唯一、何度も会って仲を深めることができた人がいました。
それが、今の妻です。
今の妻とは、先程登場した同僚と行った街コンで出会いました。
街コンに行ったことがある人はわかると思いますが、組み合わせになって話した異性とはできるだけLINEを交換するというのが定番です。
私と妻の組でもそれは行われていたのですが、LINE交換に不慣れだったせいか妻と私はちゃんと交換ができていませんでした。
妻のことが気になっていた私は、街コンの終わり際にLINE交換がちゃんとできていないことに気づいて、妻に声をかけてLINE交換をしてもらいました。
今思うとこの行動ができていなかったら、私の人生は大きく変わっていたのかなと思います。
私の妻は、最初のデートで遅刻してくるわ、ふたをあけたら子持ちバツイチだったわ、ストーカー化した元カレとのいざこざに巻き込まれるわ、大変なことが結構あったのですが、今思えばいい思い出・・・かも知れない・・・。
そう、私の妻は子持ちバツイチでした。
最初の出会いでは全くわからなかったのですが、LINEのタイムラインを見ると明らかに子どもがいそうな感じの投稿があり、最初のデートの前に私は気づきました。
ただ、気づいたのは約束を取り付けたあとだったのと自分が誘ったので、これを理由にキャンセルするのもどうかと思い、もう一度会ってみることにしました。
ここから先は紆余曲折あるのですが、本題からは外れるので要点だけできるだけ長くならないように書き綴りたいと思います。
その後彼女(今の妻)との交際は続き、彼女の娘達とも会い、子供達にも懐かれてどんどん仲は深まっていきました。
彼女のことは好きでしたし、子供達のことも好きでした。
ただ、この人と結婚して自分がいきなり家庭を持って、子供達(娘2人)の父親になることなんてできるのか、葛藤は続きながらも交際は続いていました。
いつからか半同棲状態になり、一緒に生活し、もう離れることが難しい状態になっていました。
そんな中で、自分の意思もだんだんに固まり、彼女からの猛プッシュもあり
結婚する決断をしました。
結婚と同時に2人の娘の父になる
結婚した当時、私が32歳、妻が31歳(妻は早生まれなので同学年ですが、1個下です)で娘は上が8歳と下が6歳でした。
婚姻届を提出すると同時に、子供達との養子縁組の書類も提出し、私たち4人は家族となりました。
戸建ての賃貸に引っ越し、子供達も念願の2階建ての家に住むことができ喜んでいました。
私たちは、幸せな家族生活のスタートをきることができました。
妊活の開始
結婚前から2人の子供が一人欲しいということは話をしていましたが、自分たちの年齢のことや、周りからの承認ということも考えると結婚前に子供を作って「できちゃった結婚」というのはダメだなと思ったので、子作りを開始したのは結婚してからとなりました。
それが2015年11月となります。
通院などはしていませんでしたが、最初のうちからタイミングは意識していました。
しかしながら、妻は毎回生理がきて、思ったよりできないものなのだなとそこで初めて妊娠の難しさを実感することになりました。
結婚から一年経ち、不妊という言葉も考え始めた頃に転機がありました。
転勤による引っ越しです。
私の転勤が決まりました。福島県から滋賀県に転勤することになりました。
この転勤については、付き合っているときから可能性が高い、というよりほぼ確実にあると伝えてありました。な
ぜなら、私の福島への転勤は期間限定で、滋賀県の別会社から福島へ出向していた形だったからです。妻はそこについては全面的に受け入れてついてくると言ってくれました。
自分の転勤に全面的に帯同してくれるという意志があるというのも、私が結婚を決意した理由の一つだったと思います。
転勤して、家族全員で引っ越し、新たな土地でまだ落ち着いていない段階でしたが、念願のイベントがありました。
2人にとっての初めての妊娠です。
初めての妊娠、そして流産
妻がフライング気味に妊娠検査薬を使って、薄っすらと陽性の表示が出ました。
早めにやっても出るようで、その後確実に妊娠しているかもう一度試したそうで、2回目ははっきりと陽性の線が出ていたそうです。
妻のつわりも始まり、体調が悪そうなときも多く、嬉しいけれども、妊娠出産のイベントはなかなか大変になりそうだなと、不安な面もありました。
特に、新しい職場に移ったばかりだったので仕事も慣れておらずダブルで大変だった記憶があります。
なにはともあれ、妊娠したということで、妊娠からの日にちでお腹の中の赤ちゃんの育ち具合を教えてくれる「トツキトオカ」などというアプリも使いはじめて浮かれていました。
そんな浮かれた私たちに、この後、不幸が待っているとはこのときは知る由もありませんでした。
私の妻は妊娠経験があり、産婦人科に検診に行くのはまだ先でもいいと言って、8週目に入ってから初めての検診を受けました。
妊娠を確信していましたが、検診を受けて確証となりました。その時点ではフクロしか見えないからまたきてくれと言われました。
こちらがフクロしか見えない状態のエコー画像。
次の検診の時には私も一緒に行ってエコー画像を見てきました。
だいぶ時間が経っているためどんな感じだったかうろ覚えなのですが、その時の診察の際に卵黄嚢が巨大化していると言われました。
あまり良くないとも言われました。
そして、妻は最近つわりが治まっているというとそれもあまり良くないと言われました。
こちらが、卵黄嚢が巨大化しているというエコー画像。
私も妻もその時点でははっきりわからなかったのですが、診察後の待合室で卵黄嚢の巨大化のことをネットで調べたらよくない情報しかありませんでした。
この時点で流産という結末が決まっていたようです。
ここからは妻の流産との戦いが始まります。
流産は、ほんとに辛かったようです。
精神的にも身体的にも追い込まれていき、よく泣いていたと思います。
男側としては、赤ちゃんができなかった残念という気持ちがありますが、その後に身体的な辛さはないため、なかなか実感がわかないというのが本音のところでした。
なんとか力になってあげたいと思うものの、男性側の無力さを感じる場面でもありました。
その後の診察ではっきりと流産のことを伝えられました。
こちらが流産が決定的となったエコー画像。
妻の流産は稽留流産というものでした。以下は稽留流産についての引用です。
稽留流産とは
稽留流産は、出血や腹痛などのいわゆる流産の徴候がないが、超音波検査で発育が停止(流産)していると診断されるものである。超音波検査結果という他覚所見だけが診断根拠になり、本人に自覚症状がないため、診断されたときの患者のショックははかりしれないため、診断は正しく、慎重におこなわれなければならない。
稽留流産は、超音波検査ができるようになった後にできた診断名である。妊娠12週までの流産の原因のなかには、受精時に偶発的におきる染色体異常によるものが多く、初期の流産は、予防・治療し得ない、自然淘汰という自然現象と考える。
自然淘汰される胎芽は、まず、発育しない、心拍停止するなどの現象がおき、次いでその妊娠を自然に終わらせるべく子宮収縮がおき、出血や腹痛などのいわゆる流産の症状がでて進行流産→完全流産へと推移する。超音波でより小さいものが見えるようになった今、稽留流産はその極初期の状態を観察しているのである。
稽留流産は発見時には流産になるということは伝えないのが一般的なようで、私たちのときもそうでした。私たちの稽留流産は染色体異常が原因でした。
春休みになると子供達が休みになり時間が取りにくくなるので、その前に手術で取り除きたいという意思を告げて、流産手術の予約を取りました。
ところが、手術の前日に妻はお腹が痛くなり出しました。
出血もありましたが、お風呂には入りたかったらしく、その状態でシャワーを浴びていたら、血の塊のようなものが出てきたそうです。
出血してお腹が痛くなったことを病院に電話して、痛み止めを飲んでいいか聞いたら飲んでいいと言われ、次の日病院に来てくださいと言われました。また、出てきたものを検査に出すので持ってきてくださいとも言われました。
この血の塊は病理検査に出されたようです。
次の日、朝イチで病院を受診したところ、まだ残留物があるため、それが自然に出るのを入院して待つことになりました。
お昼過ぎても自然に出なかったら、残留物を取り除く手術をするということになりました。
もともと手術の予定になっていたので、私も付き添うことにしており、日帰り入院に付き合いました。
入院している間に少しずつ排出していたようですが、最終的には残りを取り出す処置をしました。
それがとても痛かったそうです。
本格的な不妊治療に踏み出す
私たちの妊活はふりだしに戻りました。
今回の流産は手術をしていないのですぐに妊活を再開することができました。
流産後は妊娠しやすいという事も聞いていたので、半年ぐらいタイミングを見て自然妊娠を期待しました。
しかしながら、やはり簡単にはできてくれないようで、空振りが続きました。
自分たちももう若くないと考え、通院しての不妊治療を始めることにしました。
妻は基礎体温をeggyというアプリを使って記録しました。
最初の3周期はタイミング療法でトライしました。
その後、人工授精(AIH)にステップアップし、6周期トライしました。
クロミッド(排卵誘発剤)服用、排卵前にHCG注射を打ち、排卵後はプロゲステロン注射を打ち、ルトラール服用をしていました。
4周期目には卵管造影もしました。子宮卵管造影検査では、異常もなく、造影検査後もゴールデン期間ということで、期待しましたが、妊娠には至りませんでした。
人工授精の最初のお話では、5~6回で妊娠できなければ、それ以上続けても妊娠することが難しいと説明を受けていたので、6回目がリセットした時、体外受精を勧められました。
人工授精の失敗とストレス
前述したように、6度の人工授精が失敗しました。
なんとなく人工授精でいけるのではないかという淡い期待があったのですが、打ち砕かれたような思いでした。
医者は体外受精に勧めといいますが、費用のことや、既に妊活ストレスでいっぱいいっぱいになっている妻のことを見ているとなかなか踏み切れない状態でした。
それに、いまいち通っていた産婦人科が信用できないという気持ちもありました。
人工授精をする腕は確かだったのか、あまり上手くないからうまく行かなかったんじゃないか、いろいろと疑念を抱いてしまっていました。
こんな状態で体外受精を任せていいのか、知識や経験が十分ではない中で不妊治療を始めて次にどんなアクションをとっていいのか夫婦ともども迷ってしまっていました。
不妊治療の休止
この時点で私が36歳、妻が35歳、時間的な余裕はあまりないということもわかってはいましたが、既にいる2人の娘にもこれから子育てのお金はどんどんかかっていくことを考えると、費用が跳ね上がる体外受精に進むことができませんでした。
体外受精も一度で成功するという確証はないしので、何度も失敗して費用は膨れ上がり、妻の精神もボロボロになることは望んではいませんでした。
不妊治療を一旦休止して、不妊治療ストレスをまずは和らげて、夫婦それぞれ健康に気をつけて、しばらくは自然の力を信じてみることにしました。
結果としては、一年弱自然妊娠を期待して、自分たちでタイミングを見ていましたがまったくダメでした。
排卵のタイミングもあまりうまく捉えてられていなかったり、仕事の疲れや忙しさからなかなかタイミングがとれなかったりと、あまりうまくいっていたとは言えませんでした。
ただ、不妊治療にかかっていたストレスは取れて、妻はジムに通って運動したり、前向きに行動しています。
体質の改善によって、うまく行かないかということも考えていますが、その結果はこれからもしかしたら出るのかも知れません。
不妊治療の再開
2020年新年を迎え心機一転、私たち夫婦は不妊治療を再開することに決めました。
これまで不妊治療で通院していた産婦人科に不信感を覚えた妻と私は、どこか実績があり不妊治療を専門にしているようなところがそう遠くないところに無いか探してみることにしました。
妻がネット検索を重ね、見つけたところがありました。
私も良さそうだと感じたので、そのクリニックで不妊治療を再開することに決めました。
ここからの、不妊治療の活動については、このブログで随時レポートしていこうと思っています。
以下の記事から、続きをお読みいただけたら幸いです。